文学賞の誕生
就職して一年目の私の担当業務の一つは、「文学賞」であった。
まだ、仕事に対する先入観が全くなかったので、驚きも抵抗もなく文学賞に向き合った。
梅雨入の頃、名だたる文化人でもある選考委員の先生方をお招きし、賞創設のための会議を持った。
先生方は、当然のように芥川賞や直木賞に並ぶものを作る意識で参加をされていた。
その志の高さに相反して、事務局側の後傾姿勢は、新人の私にとっては理解不能で、違和感の残るものであった。
しかしながら、今ならこの状況がよく分かる。
最善を目指すことよりも失敗をしない無難な形に仕立てること。それが公務員の仕事なのである。直接、言われたことはないが、それが組織の信用を守ってきたのだろう。
20年かけてようやく、私は公務員らしく応対をすることが苦手だったと気が付いた。失敗することには、自分にも相手にも寛容だし、物事には付き物だと思っている。常に成功を目指して取り組んではいるが、リスク・マネジメントの意識が欠け落ちているのである。
公務員としては致命的な性質である。
話を戻そう。
会議では、名称、掲載誌の提案、選考方法、式典の次第など賞についてのあらゆることが大小問わず、次から次へと決められていった。
未知の世界に触れた嬉しさでいっぱいの私は必死にメモを取り、その後も実現に向けて知恵を絞り、成功に向けて段取りを考えていった。
全国的な文学賞の創設は、私だけでなく上司や先輩方にとってもこれまで経験したことのない大きな仕事である。
課内総出の事業と思いきや、仕切りと実務のほとんどが一年目の私に任された。
右も左も分からない新人職員であったが、心臓は強かった。そのおかげで私は多くの貴重な経験をすることができた。
誌面掲載のお願いのため都内の大手出版社まで足を運んだり、選考会会場で進行の打ち合わせをしたり、表彰式の台本を書いて司会の方と煮詰めていったり、無我夢中で上司や先輩を連れ回して突き進んだ。
広報との出会い
「広報」の仕事に初めて触れたのもこの時である。
有り難いことに、賞の運営の参考になればと選考委員の先生が高見順賞(残念ながらのこの1月で終了してしまった)の事務局を紹介してくださった。
その事務局の方は、選受賞者決定直後の対応方法、マスコミへの投げかけ方、送付先リストなど広報に関することを惜しみなく教えてくださった。
取材を受け身として待つのではなく、自らの手で発信していく仕組みの存在に驚き、興奮した。
当時から広報部署には記者クラブが併設され、通常の情報発信は、そこを通じて行われていた。しかし、高見順賞を倣って行った文学賞の広報は、今でも通常の職場では行わない、一歩先をいくやり方であった。
このように私は文学賞の仕事を通じてマスコミやメディアの存在を意識した。そして、広報の一端、そして面白さを知り始めたのである。