ピーマンを割って思い出す。
昔から母は「再利用」を考える人だった。時代の影響も大きいとは思うが、家族には過剰と思えたし、なによりセンスがなかった。
笑い話だが、ある時から料理にピーマンの種が入るようになった。理由は明快、もったいない。
何か栄養がありそうだとも言った。なくはない、とは思うが私は嫌だ。
飼い犬に残飯は昭和の名残。野菜の端切れとご飯を煮た、いわゆる”ねこまんま”がわが家の定番。あるとき、バナナの皮が入るようになった。誰もが非難したし、何よりクリは吐き出して食べられないことを証明して事なきを得た。
母は化粧水をつけない。本も読まない。冠婚葬祭以外は化粧もしない。教員が天職で、常に誰かのためにと動き回って忙しく、直感的なのに妙な説得力があって、粘り強くて不思議な存在。
あまり、というか同じタイプの人間にこれまで出会ったことがない。
一方の父。
さっぱりした人で、父の辞書に「再利用」という言葉はないと思っている。常にこざっぱりとして物は少なく、考えも身の回りも常に整理整頓されていた。
当時から肌には男性用の何かを好んでつけていたし、朝シャンが流行る前から朝シャンだったし、還暦を過ぎてシミ取りレーザーもするミーハー気質。
話題の本は手に取り、映画館にもせっせと足を運んでいた。が、さっぱりし過ぎて家でその見聞を話題にもせず、ほとんど何も覚えていなかったのだと思う。
私は説教臭くないそんな父が好きだった。後ろをついて回っていた。
父は美的なセンスが高く、庭の花をせっせと植替え、洗面台やトイレの一輪挿しをこまめに入れ替えていた。高島屋が大好きで、シンプルで良いものをササッと買って身につけていた。
母は、花瓶が欠けたならば直して再利用する関心こそあれ、生けられた花には興味がなかったはずだ。服の組み合わせもありえないほどちぐはぐなことが多い。
このように、二人の行動は大分異なるが揉めることはなかった。父は母に関心がないのではなく、母の振る舞いはただの事実としてさっぱりと扱うから何も意見が湧いてこなかったのだと思う。
母は仕事の何もかもを父に話し、熱く持論を展開する。父の傾聴力は見事なもの。大したもんだの一言で嫌味なくまとめる。
傍から見た二人の共通点はポジティブであること。今、両親は揃って70後半ばを過ぎ、往年の精細さが目減りして私としてはがっかりすることも多いのだが、ポジティブさだけは今も変わらない。
ピーマンの種があろうがなかろうが……で育った私。
自分を含め、たくさんのこだわりや思いを眺めながら「結局は何でもいい」に振れ過ぎることが私の強みであり弱みでもあり、フラットだと言われる所以かな。
ピーマンの種を適当に取る自分がここにいる
おしまい