念願のPR塾へ申し込む
今年の5月17日、PRプロフェッショナル協会 の広報プロコースに念願の入会申し込みをした。
協会の代表は、笹木郁乃さん。エアウィーブ(マットレス)などの企業広報で大活躍された経歴を持つ。現在は自身でPR会社(株式会社LITA)を立ち上げられ、代表取締役を務めていらっしゃる。
パソコンから私の郁乃さん履歴を探ると、2017年7月に郁乃さんの存在を知ったようであった。2018年7月には郁乃さんのメルマガを購読していた。ここまでのアプローチの長さに驚く。
前職での広報
2004年、私は異動によって博物館勤務になった。それ以降、学芸員として働いてきた。
高校生の時から博物館で働くことが憧れであったので、満願成就である。
ただ世間の例に漏れず、仕事内容はいわゆる“雑芸員”。
施設の維持管理に庭掃き、賃金の支払い、予算管理、講座やイベントの企画運営、接客、広報と、目につく仕事は一通りこなした。
業務全般に関われることは社会勉強になったし、業務を進めるにあたっての近隣の方とのお付き合い、ボランティアの方々や外注先の業者さんとの関わりも楽しかった。
しかし、施設は使われてナンボのものである。
お客様が来てこそ、私のいる意味、働く価値がある。
在籍する間、ずっとずっと、広報を切実な課題として捉えていた。
市役所内で開催される広報研修へは自ら手を挙げ、積極的に参加した。情報発信アドバイザーという専門家も配置されていたため、指導を受けにいったこともあった。
紙一枚で伝えるポスターやチラシ、ガイド、リリースなどの作成は特に心が弾むものだった。テレビや新聞、雑誌といったメディア対応も徐々に慣れていった。市の広報ブログのびのびシティ通信 の投稿は、お仕着せではなく、施設に親しみが感じられるような投稿を試みた。
このように課題と捉えながらも無限の可能性を秘めた広報業務は、私の好奇の塊であった。
同世代の女性が教えるPR塾の存在は、仕事を前進させる上で目が離せないものだった。
PR塾に通えない理由
こんなにもPR塾に魅力を感じる私であったが、受講をためらう状況が続いていた。
2013年に社会人学生として大学院に入学し、まだ課程を終えていなかったからである。
通学の為に、博物館ならではの月曜日休みを活用し、さらに年休も最大限に利用していた。物理的にPR塾へ通える時間はない。
ただ、PR塾の動向だけは目を離さず窺っていた。
しかし、仕事に対して前向きな働きぶりとは裏腹に、いつからか私は組織から独立して生計を立ててみたいという想いが芽生えていた。
もっと施設を活用させたいのに、もっと講座をやりたいのに、もっと宣伝したいのに、もっと人材を活用したいのに、もっとお客様を大事にしたいのに、と常にもっとやりたい欲求が湧き起こる自分と、それが叶わず抑制しなければならない環境に疲弊していたのだ。
新たな仕事のチャンスが訪れると心が躍り、好奇心でいっぱいになった。しかし、周りの反応は冷ややかで、愚痴やぼやきばかりが話題に上がった。
私は浮いている。私の考えがおかしいのかもしれない、と事あるごとに憂鬱な気分になった。
周囲との違和感を抱えながら、この環境でずっと生きていくのは無理だという実感もあった。実際に軋轢も生じた。万が一、出世して上に立ったとしても愚痴やぼやきに囲まれて、このしっくりしない感覚はずっと続くだろう。
ただ、何を生業にしていけばいいか見当がつかなかった。学んでいる近世文芸のジャンルがビジネスになるとは思えず、不甲斐ない自分にもがき苦んだ。
そんな中で自立して働く人々が目につき、眩しかった。
彼らの活躍を目にする度に、私にはない才能をもっともっと広げてほしい、応援したい、そんな風に眺めていた。
もやもやとした気持ちを内包したまま、結局私は何年も同じ生活を繰り返していた。
コロナ禍の決断
今年の春、コロナ禍で大学院の講義が全てストップした。
大学院は論文の完成を目指す場所である。
修士課程はなんとか卒業していたものの、私はいつからか弁証で自論を説得させることへの興味がないことに徐々に気づきはじめていた。
学問的に深く好きな世界に浸れる心地よさで通うようになっていた私は、コロナ禍の大学院に在籍する意味がない。
7年も過ごした気持ちのいい空間ではあったが、コロナによって退く決断の機会を得た。
そんな折である。
新たなPR塾開講の知らせが届いた。
大学院を辞めた今、やらない理由はなかった。
さらに、今回のPR塾の講義は、在宅での仕事を見据えた内容構成になっていた。
迷子の私にとって「仕事・在宅・広報」のキーワードを持つこのPR塾は、まさに渡りに舟であった。
広報PRが個人で代行できるという可能性を知り、それを仕事にしていこうと決意したのである。
たくさんの成長の機会をいただき、これまで20年間の生活を保障してくれた職場ではあったが、前に進むことにした。
ここ数年、「辞める」か「辞めない」かをずっと自分に問い続けていたことへの疲れもピークになっていた。もうその迷いを卒業して次のステージに行ってもいいとようやく思えた。